「気配り学のすすめ」2007.4.20
1)気配りを英語でいうと
電波の隠れ蓑の研究で有名な「気配りの末武国弘」先生から「科学技術時代の教育」という本を戴いた。その本の終わりに近くに、気配りの一章がある。私の話を聞いてくださる度に、気配りの足りなかった点を指摘くださったのを嬉しく思い出した。
外国に行って気配りの話をするのに、英語でなんと言うかが問題になった話は面白い。日本語を外国語で訳してみると、日頃うっかり使っている言葉を反省するのに役立つものである。
気配りは一語になりにくいらしい。considerationが近いが、この訳は配慮で、何か国会答弁みたいでお座なりに聞こえる。色々な人と議論して、結局considerate attentivenessに落着いたそうだ。これでは訳語でなく、説明である。
他の12章を眺めていると、どれも一応立派だが、もっと気配りがあったらと思ってしまう。どんな立派な計画でも、隅々までの細かな気配りがなければ、結局はうまく行かない。最後の決め手は気配りのように思う。
気配りをそのまま世界に通用させたらよい。ついでに「気配り学」でも作ったら面白いだろう、畑村洋太郎先生の失敗が失敗学になったように。末武先生いかがです。
2)気配り道
現状を踏まえた目標を立てる、目標に合った制度組織を作る、制度と人が合うよう運営する、この総ての段階で隅々までの気配りが必要である。各段階で大切な気配りを総合すれば「気配り術」になる。心理学が臨床心理になったように。
社会を動かすエネルギーの大部分を作り出すのは、平均的な人材のグループであって、恐らく社会の九割の人はこのクラスに属すだろう。必要な人材をどう育て配置したら良いか、科学的に研究し、学校などの施設をうまくを活用すれば、実際にもそのような人材が無理なく育てられるだろう。比較的に易しい領域である。
残りの一割位が同じく大切であるが、一筋縄ではいかない人達が揃っている。例えば発見発明して新しい将来を切開く天才達がある。成功のカギは努力とチャンスであって、好きで努力する内にチャンスに恵まれて大成するように気配りする事が大切である。一割の中の多くは天才ほどではないが、良くも悪くも極めて個性の強い人達である。自分の好き嫌いに従って行動し、自分で責任を取るつもりの人達である。好き嫌いの選択が結果として社会の目標と無理なく合うような微妙な気配りを何となくして上げるのが一番必要なのがこのクラスであろう。ハンディキャップがあったり、ひどく変わっていたりする人達もこの仲間である。現場でのこのクラスへの気配りが隅々まで届く必要がある。
総合して「気配り道」、一歩すすめて「気配り道場」を作ったら面白いだろう。末武先生いかがです。応援しますよ。