提言2

 

Eスクエア・プロジェクトは,「学校にインターネットを!」というスローガンをかかげて進められてきた。その点だけでいえば,それなりに「成功」したと言ってよいだろう。もちろん,インターネットなどにはまったく見向きもしない学校はまだまだ多いし,たとえ現場では大いに活用したくても,技術的障害,管理上の障害,行政上の障害などなどのため,インターネット接続ができないという学校もたくさんあるので,「学校にインターネットを!」というスローガンの旗は,まだまだ掲げておかなければならないだろう。

しかし,ここであらためて問わねばならないことは,学校にインターネットを導入して,それでどういう「成果」があがったのか,ということである。「インターネットを学校で使わせよう!」ということだけが目的ならば,「使ってくれた」というだけで十分な「成果」といえるだろう。インターネット利用の授業が増えれば,増えただけ「成果があがった」のであり,「成功した」といえるだろうが,本当にそれだけが目的だったのだろうか。

学校にインターネットを入れるのは,ただ「入れること」だけが目的であるはずはない。それによって,これまでできなかった「新しい教育」ができることであろう。それでは,インターネットではじめて可能となる「新しい教育」とはどういう教育だろうか。

とうぜん,「インターネットが使えるようになる」教育,「マルチメディアを使いこなす」教育,あるいはもう一歩進んで,「さまざまな人々と交流する」教育,「さまざまな情報を収集し,編集する」教育などは,インターネットの活用でできるだろうし,「成果」もあがるだろう。そういう意味でいえば,Eスクエア・プロジェクトは大いに成果があがったといえる。

しかし,それだけでいいのだろうか。

「調べ学習」は学習か

筆者は,日本の学校教育でよく使われる「調べ学習」ということばが,以前から不思議でならなかった。「どうして“調べること”が学習になるのか。」

よくある「調べ学習」では,「調べたら,こういうことがわかりました。」ということが「成果」として報告される。しかし,これは「学習」だろうか。

調べるのなら,当然,「何のために」,「なぜ」,「何を」調べるのかについて,事前に十分な吟味があり,調べた結果,その目的が達成できたかの反省,さらに,調べた結果を利用して実行しようとした「行為(アクション)」が実行可能か,実際に実行されたか,などの評価があるはずである。

「○○を調べる」という。「○○を調べたら,○○について,いろいろわかりました」という結果だけでは,反省も評価もできない。極端な言い方を許していただくなら,「それがわかって,何になる?」「どういう具体的な行為(アクション)が生み出され,遂行されたのか?」

「いや,私たちは情報を提供しただけです。それをどのように利用され,どういうアクションが生まれるかについては,それなりの“専門家の人たち”におまかせします。」というのなら,「それは,ちがう」といいたい。

そもそも,「情報」というのは,やりたいこと(やりたいアクション)がまずあって,それを遂行するために,どういう情報が必要かを明らかにし,その必要性に即して探求して得られるものである。そのようにして得られた情報だけが,「利用価値のある」情報なのである。そうでなく,ただ「何かのお役にたてばよい」として提供される情報というのは,その大部分が「使い物にならない」情報,すなわち,「ジャンク」にすぎない。

もちろん,科学の探求が,つねに「なんらかの行為」の遂行を目的とするとはかぎらないことは確かである。文字通り,好奇心にかられて,あれこれ調べているときに,突然,大発見が得られることがある。そういう場合,その「大発見」が大発見であるためには,なんらかの点で,「普通はこう考えられていることが,実はぜんぜん違っていた」ということであったり,「いままで不可解だったことについて,納得のいく説明ができる」ことであったりするわけである。したがって,「従来の常識をくつがえす」ことや,「あたらしい説明をつくりだす」というのは,私たちの文化にとって大切な「実践」である。そういうことがいつかできるようになることを目指しているからこそ,探求しているわけである。当然そこには,「くつがえされそうな」,「くつがえすべきだとおもわれる」常識というのが,なんとなく予感されていたり,「従来は説明ができないが,うまくいけば説明できそうなこと」,「これが説明できると,他のさまざまなことが同時に説明できるだろう」とうことについての予感があるはずである。したがって,他人には「たんに好奇心にかられて,いろいろ調べているだけ」と見えても,調べている本人にしてみれば,でたらめにあれこれやっているわけではない。

このような,「従来の常識的な解釈や説明をくつがえす」とか,「あたらしい説明を生み出す」という「予見される行為(アクション)」が想定されて,それに即したおよその方向にしたがって探求されているとき,得られる情報の99パーセントはジャンクでも,のこる1パーセントが「大発見」になるかもしれないのである。

問う前に「答え」を求める

インターネット利用の学習のおちいる最大の危険性は,「問う前に“答え”を求める」癖をつけてしまうことである。つまり,自分自身で,本当に何を知りたいのか,なぜ知りたいのかについてじっくり考えることを飛ばして,いきなり,「きっとなにかの答えになっているだろう」という情報を集めるのである。

しかしこれはインターネット学習によるものとはいえないかもしれない。なぜなら,筆者は以前から,大学生が卒論を書くという段階で,自分自身での「問い」をまったくもたずに,ひたすら,「○○について調べる」ために奔走しはじめる,という傾向に泣かされてきたからである。おそらく,これは日本の教育界の「調べ学習」なるものの「悪癖」の結果ではないか。インターネット学習はこの「悪癖」にワルノリして,助長してしまう危険性がある,というだけのことであろう。

いろいろ調べているうちに「問うべき問い」が発見されるということは,ないわけではない。しかし,それも,「10の問いを出発点にして調べていたら,11番目の問いが発見された」,というぐらいのことであり,「ゼロの問いから出発したら,1の問いが見つかる」というものではない。

インターネットであれこれ検索していると,さまざまな「関連情報」というのがみつかる。それらをたどっていくと,「関連の関連」のネットワークがどんどん広がる。

ところで,インターネットでたどる「関連」とはなんだろうか。それは,仮説に対する検証とか,論理的な推論の連鎖ではないことがほとんどである。いわば,「連想」に近いような関連である。

ふたたび「大学生の卒論」の話にもどるが,彼らの「論」なるものを読むと,まさにそこには「連想論理」とでも名づけたくなるような「関連付け」で,だらだらと事項がつらなっていることが多い。そこには仮説と検証のロジックもないし,ある前提や証拠から確実に言えることを導くような推論でもない。こういう「連想」的関連づけを助長してしまう傾向が,インターネット学習でますます強められることを恐れるのである。

インターネット学習の今後の課題

 Eスクエア・プロジェクトは,学校教育にインターネット利用を普及させたという点では成功している。この点では,わが国の場合,当分はどんどん加速させていくべきだし,事実,加速してゆくだろう。

 しかし,そろそろ,インターネット利用教育が,教育をどう変えているかについて,丁寧な分析と評価が必要な時期にきている。インターネット利用で本当に身に付く学力は何かということや,インターネットで失われる学力は何か,ということについて,ほとんどなにも実証的なデータがえられていない。むしろ,科学の探求や,論理的な探求にとって,かえってマイナスの効果をもたらすのではないかという疑問すらある。インターネット学習は現段階では圧倒的に「総合的な学習の時間」での活用が主であり,教科の授業での活用例が少ないことの原因には,教科教育の先生方にとって,まだまだインターネット利用学習の意義が見えないからではないだろうか。

 そのためには,インターネット利用によって,本当に「頭を使って」考える学習が育つのか,それとも「わかった気にさせてしまう」学習になるのか,こういう点でも,十分な議論と,事実に基づく検証が必要な時期にきているのではないか。

 まさに,インターネット利用教育の真価が「問われる(評価される)」時期にきている,といえよう。

(青山学院大学 佐伯 胖)