200 2年2月友情人形サイトへデータ提供

北海道当別町立弁華別小学校
「エリザベス・アン」

こんにちは

北海道石狩郡当別町立弁華別小学校5生です。

ぼくの学校の青い目の人形を紹介します。名前は、『エリザベス・アーン』といいます。

アーンちゃんは、1927年(昭和2年)に日米の親善大使としてやってきました。当別町には、アーンちゃんの他に3体きたそうです。

エリザベス・アーンちゃんが、弁華別尋常小学校に来た正確な日付はわかりません。記録に残っていないそうですが、記憶に残っている人の話では、当別小学校まで、みんなよそいきの服を着て迎えに行ったそうです。

ここ弁華別にアメリカから日米親善の願いを込めて、やってきたエリザベス・アーンちゃんの記事が1983年版の北海道の新聞で紹介されたことがあります。その記事の中から、当時の人々の喜びや悲しみ、人形に対する愛情がわかります。

遠いアメリカからはるばる北海道の弁華別へやってきた「青い目の人形」は、当時の子ども達に夢をふくらませてくれました。女の子達は、独りでは淋しかろうとみんなで二銭ずつお金を出し合い、日本人形の「おともだち」をアーンちゃんにあげました。

エリザベス・アーンちゃんが弁華別小学校に来てから、平和な時代は長く続きませんでした。エリザベス・アーンちゃんも子ども達も「戦争」にまきこまれていったのです。

日本の学校では、太平洋戦争たけなわの昭和18年、全国の国民学校に保管されていた1万あまりの「青い目の人形」を「敵国の人形だ」・「戦う気持ちを高めよう」という国の命令で壊したり、焼いたりしたそうです。

では、どうしてエリザベス・アーンちゃんは、弁華別小学校で生き延びることができたのでしょうか?なぜ壊されもせず、校舎の隅の戸棚の中にしまわれていたのでしょうか? 実は、戸棚の中に放っておかれたのではありませんでした。当時の井村為次校長先生と千葉誠教頭先生が戸棚にかくまっていたのです。「いくら当別の校長会で青い目の人形を焚殺するという申し合わせをしても、私にはとてもできませんでした。別に自分のクビをかけて、というような意識はなかったですなぁ。壊したくなかっただけですよ。」と井村校長先生は当時を振り返ってお話してくれたことが新聞に載っていました。

それを発見したのが当時校長をしていた辻岡聖信先生です。昭和48年3月、たまたま物置に行って戸棚の整理をしていた時に発見したというのです。彼女が来たのは、昭和2年ですから、なんと46年もの歳月が流れたことになります。また、物置にかくされてから、実に30年にもなるのです。

今は、先生方の玄関を入ってすぐのところに当時の説明書きと一緒に、人形ケースの中からぼく達の元気な声を聞いてみんなの幸せを願っていると思います。