宮城県三本木町立三本木小学校
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「ベティー・ジェーン」
2000年2月横浜市立本町小学校へデータ提供
本町小学校の6年生のみなさん,こんにちは。
宮城県の三本木町立三本木小学校で,コンピュータクラブを担当している松浦啓悦と申します。
みなさんからのお手紙を拝見して,さっそくうちのクラブのみんなに返事を書かせようと思ったのですが,学校の行事等の関係で,クラブとして活動できる時間が無く,担当教師の私がお返事を書いています。
うちの学校でも,みなさんの学校と同じように「青い目の人形」があり,大切にしています。名前はベティー=ジェーンといいます。ひな祭りの時期になると,ふだんは校長室に飾っているベティー=ジェーンを,玄関ホールに雛人形といっしょに飾ります。そのときに,人形の立場で書いたコメントをはりだすので,その文を以下に載せてみました。
それから,今回は,デジカメ画像を添付します。みなさんのHPづくりにご活用していただければ幸いです。
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70年前にアメリカからやってきた
「青い目の人形」ベティー=ジェーンです。
どうぞよろしく。
昭和2年,私はアメリカから12739体の仲間とともに日本にやってきました。そのうち221体の仲間が宮城県に来ました。私たちは,日本とアメリカがなかよくできるように,友情のかけはしとしてやってきたのです。ところが,昭和16年に太平洋戦争が始まりました。日本とアメリカは戦争になってしまったのです。私たちの仲間のほとんどは,敵のアメリカから来たということで捨てられたり,焼かれたりしました。
三本木小にやってきた私も同じように捨てられることになったのですが,我妻義正先生が私をかわいそうに思い,自分の家の蔵にかくしてくれました。我妻先生はそのことがばれたらたいへんなことになったことでしょう。
その後,日本は戦争に負けてしまいました。戦争のきずあとから立ち直るのに,日本の人々はいっしょうけんめいにがんばりました。そのため,我妻先生も他の人も私のことをしばらくの間忘れていました。私は40年もの間,我妻先生の家の蔵ですごすことになったのです。
昭和61年,私は蔵の中から発見されました。でも,あまりにも長い間蔵の中にいたので,体中ぼろぼろになってしまっていました。そこで,古川の人形師,三塚さんが私の修理をしてくれました。体もきれいにしてもらい,洋服も新しくしてもらいました。
こうして,私は三本木小学校に再びもどってくることができたのです。戦争のあと私のように生き残ることができたのは,宮城県ではたった6体しかいません。
いつもは校長室に大切にかざってもらっていますが,ひな祭りが近いので,日本のひな人形のみなさんといっしょにかざってもらうことになりました。
世界中の人がいつまでもなかよく,平和にくらせるように,私たち「青い目の人形」は願っています。
私は,70年も前から三本木にいるので,もしかしたらみなさんのおうちのおじいさんやおばあさんとお会いしているかもしれません。おうちに帰ったら,私の話をしてみてくださいね。楽しい思いで話を聞くことができるかもしれませんよ。
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以上が,人形の立場で書いたコメントです。
みなさんの欲しい資料と一致しない点もあるかと思いますが,期日も迫っておりますのでさしあたって,手元にあるものを引用しました。ご質問や,さらに欲しい資料等ありましたら,お気軽にE-mailにてお問い合わせ下さい。
では。
989-6321
宮城県志田郡三本木町立三本木小学校
sanbon_e@sn.myswan.ne.jp
コンピュータクラブ担当 松浦啓悦
matsuh@sn.myswan.ne.jp