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宮島理事長挨拶

曖昧さの科学と科学の曖昧さ

─ 第31回評議員会での挨拶から ─

 (1) 曖昧さの科学

 人の感情、印象、気持などは曖昧で科学の対象になりにくいと思われている。しかし対象が自然界の現象である以上、自然科学で解明できないものではなかろう。

 たとえば谷川のせせらぎや湯の沸く時の松風の音などがある。これを科学的に解明するヒントは旧制高校の生徒であった頃、寮の風呂場で私の頭にひらめいた。ボイラーからの熱水を風呂水の中に循環させて暖める普通の仕組みである。これが時々鉄砲のようなパンパンという凄い音をだす。ボイラーの過熱からだろう。出てくる熱水の中に蒸気がまざって球状の泡になっていた。この蒸気の泡が風呂の湯に入って冷やされると、蒸気が水にもどって、泡の中が真空に近くなる。そうすると泡の球は水圧に耐えかねて急に潰れ、水と水とがすごい速さで衝突して衝撃波が出る。これがパンパンという音の犯人だった訳である。

 滔々たる大河でも海のうねりでも水は流れているだけでは音を出しにくい。水が物に当ったり、泡ができたり潰れたりする時に音がでる。湯の沸く時の松風の音も同様である。鉄瓶の中の湯はまだ大して高温ではないが、鉄瓶の底はすでに高温で小さな泡ができ始める。泡は登って少し低温の所にくるから、すぐに冷却されて蒸気が水にもどり、真空になった小球はパット潰れて音を出す。寮の風呂と同じだが、泡が小さいので、かわいい松風の音にきこえる。

 これに対して、谷川のせせらぎは事情は少しちがう。それは温度のちがいが殆どないからである。例えば石の多い河床の上を流れる水は、石にせかれて流れ下ると、水に流れ込む時に空気を巻き込んで泡をつくる。表面張力のために泡の中の空気はいくらか圧力が高いが大した事はない。しかし泡が急につぶれる時には破裂音がでる。音は小さいが泡が沢山あれば、せせらぎの音として聞こえることになる。

 家庭で泡が音を出すのを聞きたい時には、水道の蛇口を細くひねってみるとよい。蛇口から静かに流れおりる水は、しばらく静かに流れて行き、もし下に水面があっても殆ど音もなく吸い込まれてしまう。

 もし蛇口からの水が更に下へ流れて行くと、やがて流れが乱れてきて、しまいに渦ができ、それが空気をまき込んで泡をつくる。これは水の表面の空気との摩擦のためである。この泡を含んだ水が下にある水面に注ぐと、泡が水面に当る時や泡がつぶれる時に音がでる。易しくできる実験である。

 今度は水でなく光の話である。健康な人の顔は艷がいいと言う。艶は光の反射とは違う気がする。油ぎったテラテラした顔は艶がいいとは言わない。実験した訳ではないが、恐らく一度表皮を透して内部の組織まで達し、そこで反射されて出てくる光の仕業ではないかと思う。一度実験してみたいと思っている。

 美しく思ったり、判断して決意したりする腦の作用を科学的に研究する腦科学は今世紀の課題である。これらは今のところ曖昧であるが、さてどこまで行けるでしょうか。すだれがX線天文学で活躍する時代です。

(2) 科学の曖昧さ

 欧米人は科学は論理的であり、従って曖昧さは無いと信じているらしい。多くの日本人も先進国に追随する癖で同様らしい。然し私は次の理由で科学にも曖昧さがあると思っている。

  A.物質の論理である量子論理は常識論理と違う。

  B.生物や地球など現実の対象は極めて複雑で変わり易く、従って我々には知り尽せない。従って論理を完全に適用することはできない。

 まずBから始めよう。例えば気象の決定に必要なパラメタの数は天文学的桁数のもので、然も数値は時々刻々に変化しているから、十分なデータを得る事は事実上不可能である。従って私たちはいつも不完全な知識の下で判断しなければ、予報もできない。それが人間の扱う科学である。だから例えばa<b、b<cでもc<aと優劣の輪になる事があり得る。この様に通常の論理を不用意に適用するのは危険である。

 従って社会学を社会科学と改名しても、それで従来の西欧の意味で科学になるものではない。株式市場でいう模様眺めなどのような曖昧な言い方がなされるのは経済の性格をよく表わしている。それだから経済学は科学でないと言っても何にもならない。折角科学にできる部分は科学的に扱おうという努力なのだから、私はそれも大変結構で、ただ科学にも曖昧さがあると言いたい。

 A.はこれについても一つの論拠を与えてくれる。Aは自然自体にも或種の曖昧さがあると言っているからである。極微の世界では、同じ原因から色々な確率で色々な結果が出てくる。学問上はこれは結果は不確定であって、曖昧とは違うという。極微世界の論理の基礎になっている量子論理によれば、結果の確率をきめる確率波は確定しているから、因果律は成立しているという。しかし確率波の確定と結果の確定とは同じではない。その点で極微の世界の論理は日常の論理と同じではない。私たちの世界は極微の世界から出来ているのだから、無関係とはいえないが、違いは大きく、日常的に量子論理で物事を考えるのは無理である。

 その上、根本的な欠陥がある。それは極微の世界で素粒子の生成消滅を考えると、確率波を扱う数学に無限大が現われて来るため、今日では完結した学問になっていない。そこに我々の無知があるので、まだ原理的にも科学に曖昧さはないなど言える段階ではない。

 更に実際的にも、対象を観測する時に、対象や観測機械を正確に確定するだけのデータは知り盡せないという事情はBの場合と同じである。

 原理的、実際的な理由で、科学も曖昧さから逃れられないと言ってよいと思う。人の科学は曖昧で“分らぬもん”です。しかし研究していけば次々に面白い事が発見されて知識が深まるでしょう。原子配列は曖昧でもロダンはすばらしい考える人を制作できた。



2001.3.23