ここに世間の誤解がある。マルチメディアの操作は決して難しくない。子供は、 簡単に自由に操作できる。不思議でも何でもない。きわめて当たり前のことなの である。それは、教わって覚えるものではなく、操作しながら学習するものだか らである。言葉の学習と同じである。外国に行って会話が出来るのは、大人より も子供の方が早い。それは、憶せず使ってみるからである。しかし強烈なインパ クトを与えたのは、むしろ授業の中身であった。子供があのように自由に表現し 発言し、情報発信する様子をこれまで見たことがなかったからである。まぶしい ような授業の光景であった。それは、新しい学力観と言われながら、どうしても 実践できなかったもどかしさを、コンピュータというメディアを使って、見事に 振り払ったからである。そのまぶしさとは何であったか。
新しい道具を子供に渡した時、子供はその道具を使い始める。それは、これま での学習指導という概念とかなり異なっている。知識を知っている先生が、知識 を知らない子供にどうやって伝達するかという、枠組みから外れているからであ る。このことは、小学生に限らない。大学生でも同じである。コンピュータの操 作等は、学生の方が、教授よりもはるかに知っている。先生が、生徒に教わると いう光景が、大学の中でごく普通に見られるようになった。この変革は、今後小 中学校に広がっていくに違いない。ともかく、新しい道具を子供達が手にするこ とによって、大胆な発想や自由な表現ができるようになった。これはとりもなお さず、新しい学力観の具現化であり、子供の側からの授業の変革となった。
教えることから、子供の情報発信の授業への切り替えである。これは、教科と いう枠がある限り、本質的に難しい。教科があれば、教科の目標にしばられてし まう。教科の目標は明確であり、どうやってうまく教えるか、そのためにどう教 材を工夫するかという教えるという考え方に縛られるのである。それを変換する てだては、教科をなくすという訳ではないが、教科を統合化する考えである。そ の1つが、総合的学習である。総合的な学習は、コンピュータ教育とは別の枠組 みで提案されてきた。しかし、この考えは、情報活用と密接に関連している。教 科を総合化すること、それは情報を統合的にあつかう能力が基礎になるからであ る。
学習は、このようなバーチャルな世界、情報の世界と現実の世界を結ぶところ で、成立する。一見数字と記号の世界に見える数学も、きちんと物理学や電気や 分子の世界を表現している。つまり、現実世界と結ばれている。 教師の役割は、むしろこの情報の世界と現実の世界を橋渡しの役割をして、架 空でないことを児童・生徒に知らせていくことかも知れない。このことによっ て、現実世界、そしてその世界で生きている自分との関わりがでてくると言え よう。仮に本当に、インターネットでオンラインショッピングで注文した品物 を手にすれば、その実在感は増すであろう。しかしそこまでしなくても、この 世界は確実に本当の世界と結ばれていることを子供たちに伝える必要がある。
しかし上記の小学生と大人や大学生との意見交流を考えてみよう。顔を突き合 わせたその場で、本当に思ったことが自由に話せるであろうか。あるいは公式の 席上で発言するには、大きな緊張が伴うことは誰でも体験している。相手が異文 化の人であれば、言葉の問題以上にコミュニケーションを成功させることは、難 しい。だから電子メールがいいというわけではない。このことは、まだ研究の段 階であって、どちらが優れているとは簡単には言えないのである。
いくつかの研究では、対面でよく知っている人たちの対話では、その内容に重 複が多く冗長な会話が多かったと報告している。これに比べて電子メールという 文字によるコミュニケーションでは、一応話題の構造を意識してあまり無駄な会 話は少なかったという結果を得ている。しかしこれはいくつかの要因が複雑に関 連しあって、簡単ではない。現在のところそれぞれに特性があって、その特性を 活かした電子メディアの活用が求められると言える。
これは、海外子女の異文化適応の研究でも、ある程度明らかにされていること である。したがって、知識として知ることから始まり、最後は理解する段階に到 着すると考えられる。
だからメディアの利用においても、始めはマルチメディアのような映像や写真 などのビジュアルな資料によって、相手を知識と知る段階がある。次にこの知識 と、自分達の置かれている環境や自分の考えと比較し、違いを知ることになる。 この比較という知的活動によって違いを知ることが重要であることは、違いを知 ることによって、驚いたり感心したりするという感情が伴うからである。そし て、自分だったらこう思うとかこう考えるといった自分の意見としての、反論 や賛同といった考えが表現される。最後に、ここは賛成できないがここは納得 できるといった理解にいたるという過程である。
いくつかの授業実践がなされているが、1つはマルチメディアというメディア を用いて、知識として知る学習がある。次は電子メールを用いて、いじめについ ての考え方をお互いに出し合って、その考え方の違いを比較するという、違いを 知る実践事例がある。最後は即時的に相手の顔の表情も見られるTV会議のよう なCU-SeeMeを用いた交流もある。この場合は感情等も含めたコミュニケーション がなされている。どのメディアがいいかは、先に述べたようにそれぞれの特性が あるので、簡単に断定できない。しかし、国際化時代にあってこのようなメディ アが大きな役割を果たすことは言うまでもない。
近年、状況論とも社会的構成主義とも呼ばれる考え方が注目されているが、社 会の関わりの中であるいは実践の中で学習が進むという考えが台頭してきた。従 来の考えは、知識や学習は人間の頭の中で生じるという認知的な考えが主流であ った、このことは学習の視点が、人間個人の頭の中の変化から、その人間を取り 巻く周囲やそのグループ等で活動する実践に移っていることを意味している。こ の学習理論の考え方を述べるつもりはないが、教育にとって重要なことは、学校 と世の中の問題解決の違いを指摘したことにあると思っている。
コンピュータメーカにおける研究開発では、仕様書の作成に始まって、コーデ ィング、ソフトウェアの評価にいたるまで、その工程のそれぞれに共同作業を通 して行われる。すべてが共同作業過程といっても過言でない。考えてみると、世 の中のほとんどの仕事と呼ばれる内容は、なんらかの共同作業である。その世の 中の仕事は、問題解決の連続でもある。その問題とは正解が1つに決まらない問 題であって、どうしたらいいのか本気で考えなければ解決出来ない問題である。 正解をこっそり隠しておいて、後で正解と教えるパターンではない。本当に知恵 を出し合わなければ、どうしても解決できない。だから皆で共同で話し合ったり 、知識や知恵を出し合って解決しようとするのである。この社会の問題と学校で 扱う問題の差異に気が付いてきた。正解が隠されている問題では、このような真 の問題解決に結びつきにくいということが、わかってきた。
科学の実験を考えてみよう。マニュアル化された実験の手順にしたがって、実 験をしたとしてもこれは問題を解決したことにはならない。もちろんこの実験の 意義を否定するものではない。そこに共同学習とか、お互いが本気で知恵を出し 合うという場がないから、手順どおり実験してみたという体験しかならない。か くして社会に出た時に、本当に生きて働く知識をどうすれば獲得できるかが議論 され、課題学習や総合科といった教育課程に関心が移ってきた。その教育方法の 1つが、この共同学習と言える。
我が国の教科書は、教える教師を想定して編集されていると思われるので、ど うしても自学自習用の教材にならない。課題学習を実践するためには、教材より も、学習材に重点をおかなければならない。といっても、教科書を分厚くするこ とは難しい。それよりも、図書館等に、教科書や資料の他にも、CD-ROM等の電子 メディアを豊富に準備しておいて、課題学習ができるように整備することである。 その意味では、図書館というよりも、メディアセンターとかリソースセンターと いった方が適切なのである。各学校でこのような整備をするには、財政上無理が あるならば、ネットワークで学校と大きな図書館を結んで、活用できるようにす ることである。授業の事例は、そのような試みであった。したがって、図書館と いうよりも、学習環境という方が適切である。
しかし、これまでの図書館は、文字どうり図書という紙メディアに重点が置か れすぎた傾向があった。現在のCD-ROMには、名作100冊が1枚のCD-ROMに収められ ているし、辞書にいたっては、大辞典がそっくり格納されている。文字だけでは ない。アニメーションや写真、動画まで格納されている。これらは、課題学習に は、必要な情報源と言える。このような学習環境の整備によって、課題学習が現 実的になる。
メディア活用は、あくまで表現主体である人間にとっての道具の活用でなけれ ばならない。これは、幼稚園児であろうが、小学生であろうが、大人であろうが、 変わりがない。表現したり処理したりする時、それをより自分のイメージに近い ものにしようとすれば、そこに道具を用いることになる。道具という言葉が適切 でなければ、メディアといってもよいし、人工物(アーティファクト)と言って もいいし、表現媒体と言ってもよい。この道具を、教師の手でなく、学習の主体 である子どもに手渡すことが、主体的学習をするための条件と言えよう。課題学 習とは、このような学習を目指しているとも言える。
生きた知識とは、現実世界に適用する場合に呼び出せて活用できる知識のこと であって、試験で単語のテストの時に思い出す試験のための知識でないことは明 らかである。現実世界とは何か。現実世界は正解が1つとは限らない複雑な問題 でできている世界である。これが試験と違う問題である。試験は正解がなくては 、採点ができない。しかし現実世界の問題は、解が無いかもしれない。だからど うしたらいいか、誰もが考えて相談しながら、解決の方法を探求するのである。 およそ世の中の仕事と呼ばれるものは、すべてこのような問題である。その問題 解決に活用できる知識は、生きて働く知識と呼べるものである。 そこで、問題解決を体験させる学習が重要である。問題解決をするには、さま ざまな知識を適用しながら、探求する過程といえる。問題解決するためには、問 題に関する知識も必要であるが、もっと大切なことは解決の仕方にある。解決方 略と呼ばれるが、その方法を身につける学習を推進しなければならない。早い話 が、英文を翻訳するという課題に対して、単語を知っていることも大切であるが 、辞書の引き方を知っていることもさらに大切である。仕事で頼まれたことで、 時間がなければ、英語の得意な人に頼むこともできる。これは、解決の仕方の1 つでもある。これまでの教育は、どのように複雑な問題を解決するかという解決 の仕方の体験が少なかったように思われる。正解が1つとは限らない問題解決の 体験が重要であろう。
以上、12項目についてネットワークが教育に及ぼす効果と影響について述べた が、メディアの変化ではなく教育や学力の考え方と深く関連していることを述べ ておきたい。さらに多くの課題があるが、これについては第5章を参照されたい。