今日,国際化などではとりわけ,言語表現と同時に,非言語表現が求められる。 教師も非言語的表現,身体的表現によるコミュニケーションは苦手である。こう した表現を子どもに指導するためにも,教師は非言語的表現能力を身につけてお く必要がある。ディベートなどの能力は,対面コミュニケーションによる説得的 コミュニケーション能力の形成といってよい。相手を信頼するとか協力するとか といった領域は,相互の信頼を生むコミュニケーションや協力体制を作り上げる コミュニケーションが基盤になる。それらは,仲間という集団での対面コミュニ ケーションの中で豊かに形成されもするし,逆にそれを阻害するようにも作用す る。
印刷メディアの次に登場したのは,ラジオ,テレビといった電気メディアであ る。テレビに代表される映像メディアは,聞けばわかる視ればわかるといったよ うに特にそのシンボル理解のための特別の学習を必要としない。しかし,映像を 主体とするテレビは,文字情報による印刷メディアと異なった課題が登場した。 それは,映像視聴能力であった。テレビに映し出される情報をそのまま鵜呑みに してしまうという問題である。そのために,自分で映像を構成し,作成するとい う,映像リテラシーが教師に求められるようになった。これは,映像文化の普及 と共に大きな課題となって今日に至っている。映像によるコミュニケーション能 力が教師にも,子どもにも求められるようになったのである。
さて,このマルチメディアによるネットワークを行き来する情報は,従来の単 一情報ではなく,文字・数値・画像・動画・音声などが統合されたマルチ情報と でもいうべきものである。したがって,新しい能力は,このマルチシンボルによ る世界の表現とそれによって表現された世界を読む能力である。しかも情報はデ ジタル化された情報である。これまでは,言語を中心として,表現シンボルとメ ディアは1対1の対応関係であった。しかし,マルチメディアでは,多様なシン ボルが交錯し,多次元的に表現されるのである。したがって,思考も単線的では なく多次元的になると思われる。
教師の新しい実践能力の中心は,こうした新情報技術によって表現されるコミ ュニケーションに対しての能力をきちんと身につけることである。かって印刷技 術によって文字がコミュニケーションとして登場したように,今はマルチシンボ ルによるネットワークを介してのコミュニケーション形態が社会の中心になる。 学校は,こうした能力を形成する場として教師に実践的能力を求めることになろ う。
コミュニケーションメディアの発展は,群衆の孤独化現象を促進したようにみ える。したがって,これからのネットワークによるコミュニケーションでは,社 会的視点からの表現,社会的視点からのコミュニケーションが重要視されるべき であろう。学校は,教師は,コミュニケーションのもつ人との関わりの増幅を, 新しいシンボルとコミュニケーション手段によって,次の世代に育成することが 期待されるのである。
情報化時代では,個人的表現も社会的表現も共にバランスよく表現できる環境 の中で,直接体験を背景としたより人間と人間の繋がりという文脈での表現力の 形成が求められるといえよう。
教師の役割は知識を子どもに教授する,といった伝統的な役割では教師は今日 つとまらない。社会や学校を取り巻く環境が変化し,子どもの人間関係は複合的 に疲弊している。教える者と学ぶ者といった二極的位置づけで教授―学習過程を 把握することはできない。教授―学習過程の場を臨床的関係ととらえるならば, そこで求められる知は,中村雄二郎のいう,自分を取り巻く世界や環境が示すも のの意味を問いながらその関係を作り出し方向付けるような「臨床の知」とでも 言うべきもののように思われる。これは,教科内容の「知」でも,教授方法技術 の「知」でも,児童把握の「知」でもない。マルチンブーバーは「我と汝」で「 <なんじ>を語る人は,対象といったものをもたない。<なんじ>を語るひとは, 関係の中に生きるのである。」と述べ,体験,出会いを媒介にその関係に生きる とする。教師自身も,各種の体験が不足しており,対象との関係を臨床的にとら えることが出来なくなっている。いま教師の資質として,こうした臨床の知が求 められているように思う。目の前の子どもの状況に応じたカウンセリングは必要 である。しかし,教育の場を臨床的にとらえる体制とでも言うべきものが,我々 にはもっと必要なのではなかろうか。体験的な学習が重視されているが,体験的 に見える場を提供するだけではなく,そこにおいて対象と体験的に関わる体制を 教師は準備できなくてはならない。体験的な場を通して,からだが感じ,からだ が開き,からだをゆだね,からだがあらわす,実感を伴う知が必要となる。これ が,今日求められる教師の実践的力量の一つである。
次は,ものそれ自体に文化的価値を有しており,学習者はそのものそれ自体に ふれて学ぶものをコーディネートする力である。教室という狭い空間にはこうし た学習を支援できるところはないし,教師自身でもこれは不可能である。例えば, 博物館,自然科学館,青少年科学センター,図書館,などの活用はこれに相当す る。博物館には,歴史的な文化財がそれ自体で展示されており,子どもは,博物 館に出かけてそのものにふれて,そこからその文化的価値を学ぶのである。例え ば,イギリスの大英博物館などでは訪れる度に,どこかの学校の子どもが教師の 引率の下に見学に来ている姿を目にする。一枚の絵,一組の古物の前に座って, 専門員の解説を聞きノートをとっている。絵が描かれた時代的背景や聖書との関 わりなどから,絵そのものに描かれている人物や,持ち物,などなどの解説を専 門員は丁寧に行う。
また,場・活動を組織し学ばせることもある。体験的な学習といわれるもので ある。例えば,青少年自然の家は,主に自然環境という「場」を利用して,そこ での子供の体験的活動を通して,学校という建物では不十分な学習を支援する。 多くは,子どもの単独活動というよりは,共同生活,協同活動の体験をベースに いくつかの活動を連動させているのが特徴である。こうした活動は,自然と子供 が一体化する中で彼らの体が開き心が開いてくることに大きな意義がある。体験 的に知ること,仲間との協力により遂行することなどを具体的活動を通して,楽 しく学ぶことに主眼がある。
ドイツでは我が国が生活科の手本とした事物教授が小学校で行われているが, これを中等学校でどのように発展させるかの検討が始まっている。その一つにプ ロジェクトと呼ばれる総合的学習がある。これは,自然科学であれば,物理・化 学・生物・地学などの学問領域を総合的に関わらせる「課題」を教師のティーム がプロジェクトとして設定し,子どもはその中から,自分の興味にあったプロジ ェクトを選択する。子どもと教師は数人から十数人のティームを組んで長期にわ たりこのプロジェクトを遂行するのである。そのプロジェクトを展開する中で, 物理や化学,生物,地学の個別の知識や技術が動員され,子どもはそうした学問 的基盤を学ぶ。同時に,人間同士の「協力」を学ぶこともこのプロジェクトの重 要な目標であるという。我々は,個々の科目を独立して扱い,そこで学ばれた事 柄は子どもの中でうまく統合されるであろうと想定している。
個々の授業を貫くものを設定した総体としての授業は多くの場合構成してはい ない。しかし,プロジェクトの考え方は,教科を独立させることではなくい くつかの教科を貫くテーマの構成にある。
教育工学会の冬の研修会の事例である。その高等学校は進学校ではなく,生徒 は入学以来英語の辞書は殆ど使用しないような状態あった。そこで,情報と英語 と社会科の教師が悩んだあげく,相互に関連する授業を構想した。英語の教師は アメリカの高等学校に通信の相手を探し,コンピュータ通信で生徒同士の自己紹 介が始まる。彼らは辞書の必要性を感じ,入学以来初めて辞書を使い始める。書 いた英語の文章は情報化の時間にワープロで入力し,相手方へ送る。返事は情報 の時間に受信する。誰ともなく自然に辞書を引くようになる。地域のことを伝達 する必要が出て地域の文化を社会の時間に調べまとめ,英語の時間に翻訳する。 卒業時期になって就職の話が出る。向こうは弁護士,プログラマー,といった具 体的職業名が来るが日本の生徒は「就職する」といった表現で,自分たちの職業 観を問い直すきっかけとなる。この授業では,生徒の中では英語の授業,情報の 授業,社会の授業は別個ではなく,相互に連結し彼らの中で課題は一貫していた のである。やがて相手の顔を見たくなり,写真を交換 することになる。もらった写真を見て驚いた,色々な人種がそこにはあったので ある。
科学的内容の保持と学習者の意味ある学びの間には,常に大きな溝があり,時 には科学の方向に揺れ,時には子どもの生活の方向に揺れる。それぞれの学習者 の興味関心意欲を見据えた柔軟なカリキュラムが求められているが,行き着くと ころは教師のカリキュラム構成能力である。発想の転換とコミュニケーション状 況を見据えた斬新な試みが必要であろう。
教師の実践的力量は,コミュニケーションメディアの転換による新たな能力か ら,体験的な経験をふまえた臨床的関係まで,多様である。これらは別々の能力 ではなく,移動している新しい社会体制が求めている実践的能力体制とでもいう べきものといえる。