1.「国際交流のねらいとは」       赤堀侃司         東京工業大学 

  本エッセーは、「よくわかる!インターネット活用国際交流のためのガイドブック」(小学館、1998年)に掲載した筆者の文章であるが、若干の編集をして、ここで引用したい。

 インターネットを用いた国際交流を行いたいという希望は多い。
 また、いくつかの実践をすでに行っている学校もある。これらの実践を通して何が得られるのであろうか。いくつかまとめておきたい。

1.交流自身に意義があること
 ある日本の学校は、アメリカの学校とテーマを決めて、電子メールで交流している。これを、英語で表現する。興味深い実践であるが、英語で交流することは容易ではない。生徒達は、辞書を何度も引きながらようやくメールを書いた。そして、初めて相手から返事のメールをもらった時、自分の英語のメッセージが相手に伝わったんだという驚きで、感動したという。コミュニケーションは、それだけで意義がある。外国に行って、はじめて英語が通じた時の喜びを誰もが体験しているに違いない。交流とは、そのこと自身に意義がある。それは、相手が物言わぬ教科書ではなく、生きている本物の人間だからであろう。

2.相手を知ること
 先の学校の交流は、やがてテーマが現代の若者の宗教観に発展したという。日本の若者が宗教に興味を持っているとは考えにくい。しかし、外国の同じ世代の若者が、自分はこのように考えるという意見をしっかり持っていることを、日本の生徒達が学んだ。例えば、外国に行った時、むやみに宗教について非難したり賛同したりしてはいけないこと、宗教が生活や価値観の基礎になっていることなどを、学んだという。
 教師が教室で大きな声でいくら説明しても、生徒にはなかなか理解してもらえない。しかし交流を通じて、考え方の違いを学ぶことができる。それは、相手の考え方、つまり文化を知ることに通じている。
 さらに、自分に向けられたメールは早く読みたい、早く書いていることを知りたいという気持ちになったと、生徒達は述べている。生きている相手がいることが、交流の原動力と言えよう。

3.自分を知ること
 やがて、この学校では生徒達が交流の内容を分析して、レポートにまとめる学習にまで発展した。レポートを書く段階になって、改めてこれまでの電子メールの内容を見直した。その時、いくつか気付くことがあった。これをコミュニケーションについてというテーマにまとめ、レポートにしたという。これは、気付くことの素晴らしさを、教えている。そうか、こういう意味だったのか、こういうふうに考えれば良いのかという気付きが、もう一度自分を見直すことに通じるのである。
 現在の学校教育においても、自己評価の重要性が強調されている。これは、自分で考え、自分で評価せよということである。評価するという行為は、これまで教師の仕事であって、生徒のする学習活動ではなかった。しかし、自分で自分を知ること、内省することの意義を見出したのである。
  生きた相手との交流を通じて、自分を知る学習まで結び付けたい。

4.協同学習によって発展させること
 上記の実践は、学期の終わり頃になって、ホームページを作成することまで発展した。日米で共同のホームページを作成しようということになった。そのホームページを作成する段階になって、生徒達が相互に教えたり教えられたりする風景が見られるようになった。これまでの授業にはなかった光景である。生徒達が意欲を持って活動に取り組むようになった。生徒達はこのことに意義を見出し、多くの生徒が積極的に取り組むようになった。協同して学習することは、そのこと自身から多くのことを学ぶ。クラスの相手がこんな特技を持っていたのかという驚きがあった。やがて、海を超えた共同作品が出来上がった。
 これまでの教育は、競争であった。入学試験という競争によって、生徒を勉強に駆り立てるという傾向があった。ネットワークの活用は、競争から協調に変えた。もちろん競争も重要であるが、協調して学習するという環境を、インターネットは提供していると言える。

5.本物の疑問を追求すること
 教室での会話は、知識を持っている教師が、知識を持っていない生徒達に伝達するという枠組みで、成り立っている。しかし、このような会話が成立しない場合がある。生徒達が課題を追求すると、いくつかの疑問にぶつかる。例えば、ある小学校では、火事の原因が漏電なのか放火なのかどうして見分けるのか、疑問に思ってこれを調べた。教師に聞いてもわからない。専門が違うのであるから、当然であろう。泥棒をどうつかまえるのか、火事の原因が何なのか、専門家でなければわからない。だから、この生徒達は消防署に出かけて調査したという。
 このように、課題を追求するとどうしてもわからないことが出てくる。知らないことを、分かりたい知りたいという要求は、人間を探求者に変える。この要求は本能的ですらある。この時答えてくれる人は、教師ではない。本であったり、その道の専門家であったりする。これが海外の場合であればどうであろうか。実際にそこに住んでいる人に聞くのが、もっとも良い。実際の挨拶の文はこのように書くのか、と本物を知ることができる。かくして、答えがわかっている時にインターネットを使うのではなく、教師も含めて本当に知らないことを調べるために、使うのである。
 国際交流は、実践である。生きている相手と現実とぶつかることによって、本物の学習をさせようとするねらいが、そこにある。
 しかし実践しなければ、本当の国際交流の意味は実感としてわからない。
 しかし実際に交流するとなれば多くの困難がある。言葉の問題、テーマの問題、コーディネータの問題、文化の違いの問題など、様々である。このような問題があるにもかかわらず、国際交流をインターネットに期待する声は大きい。それは実践を通して、生徒達に現実の姿に触れさせ、そこから生徒自身が変わっていく姿に接したからであろう。

 

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