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鏡町立鏡小学校の「青い目の人形」の由来について

鏡町文化財審議委員
田 市

 昭和2年(1927)アメリカの子供達から、日本の子供達へ友情の親善使節として12.739体の「青い目の人形」が贈られてきた。
 当然、答礼として58体の「黒い目の人形」がアメリカの子供達へ贈られた。
 それから69年の風雪を経て現在25体の日本人形がアメリカ各都市の博物館等に大切に保存されているという。
 同様に日本各地にも、216体の「青い目の人形」が健在であることが確認されている。
 その時、熊本県には214体の人形が贈られて来たが、現存するのは鏡小学校の1体(ベティー・ジェーン)と宮原小学校の1体(パトリシア・ジェーン)のわずか2体だけである。

 人形が日本へ贈られた頃は、日本から米国への移民が急増しカリフォルニア州を中心に低賃金で働く日本時への不満が高まり、大正13年には米連邦議会が日系移民を排斥する法律を可決する等日米関係は悪化をたどっていた。
 このことに心を痛めたシドニー・ギューリック博士は子供達の心に友好親善の精神を育てなくてはと考え、大正15年に世界児童親善会を創設して、米全土で日本へ「青い目の人形」を贈る運動を行ったのだった。
 その後、日米開戦が始まり、戦争が激しくなると英語やジャズ音楽などは追放され、「赤い靴」などの童謡も歌えなくなった。
 このような情勢の中で「青い目の人形」にも危機が迫ってきた。昭和18年2月、ある担当者の質問に文部省役人の「人形は壊すなり焼くなり海へ捨てるなりすることに賛成する。」という談話により、全国的に処分の方法がとられていった。
 あるところでは、適正人形ということで焼かれたり川に捨てられたりした。中には竹槍で突かれて壊された人形もあったという。
 大部分の人形はこのような運命をたどったが、鏡小や宮原小では一貫してそのようなことはなく、当時の校長や職員の親善友好の趣旨を理解した判断によって、目立たぬ場所に保管され、廃棄をまぬがれたのだった。
 当時の鏡小校長は佐々木秋則氏、弘安太郎氏であり、宮原小校長は広松朝清氏であったことが歴代校長録に見える。
 人形には罪はない、捨てるのはしのびないという優しい人達に巡り合って戦禍をくぐり抜けて生き延びた人形は全国は216体であったという。

 時は過ぎて昭和61年5月、「横浜人形の家」で「青い目の人形」が展示してあると言うことでギューリック3世が開館式に招かれた。その模様をメリーランド州の娘が通う小学校でビデオテープで見せたところ、児童達が私達も新しい人形を作って日本へ贈りたいと言い出し始めた。そして、贈り先はギューリック1世が明治21年から9年間住んだ縁のある熊本と決まった。
 そこでYMCAなど関係団体や機関と協議して学校は鏡小と宮原小が選ばれたのであった。あとの2体の贈り先は碩台小と熊本YMCAと聞いている。

 昭和63年3月3日、ギューリック3世夫妻とお嬢さんが新しい人形を持参して鏡小と宮原小を訪問した。両校は、歓迎と贈呈の式を盛大に行って友情に応えたのであった。
 新しく贈られた人形の名は、マリ・アン(鏡小)とバーバラ(宮原小)という。人形ケースが不足したので、両校の人形ケースは1〜2年後宮原町の古島家具工芸展に筆者が注文し、それぞれ人形を納めた。
 このようなわけで、両校には「青い目の人形」が2体陳列されるようになったのである。
 後日談になるが、昭和63年3月に県内4カ所に贈られた「青い目の人形」のお返しとして今度は、米ルイジアナ州に「黒い目の人形」が再び贈られることになった。
 熊本市花畑町国際センターを通じて、アメリカの子供達へ贈られたのは昭和63年6月26日であった。
 人形の愛称は公募の結果、阿蘇鏡子と阿蘇健太郎と発表された。実は、鏡子というニックネームは「青い目の人形」の保存校である鏡小学校の校名にちなむ愛称であり、健太郎は、同じく宮原小学校の男児名で1番多かった名前に基づいて決められたのであった。
 このようにして、日米の子供達の大きな友情親善と平和の輪は今でも広がっており交流が続いているのである。
 この人形が使節として果たした役割や第2次大戦という未曾有の戦禍をくぐり抜けて現在も残されているという意義について、生きた教材として学校行事の時間等でも活用し紹介してほしいものである。

 本文は平成9年3月に発行された「公報かがみ」に掲載されたものの全文です。

 平成9年7月1日に、ギューリック3世夫妻が、10年ぶりに来校され、児童会主催で「七夕集会」と「ギューリック先生を迎える会」を一緒に行いました。児童会主催の手作りの交歓会にギューリック3世夫妻も大いに感激されておりました。

平成12年2月10日

鏡町立鏡小学校   6年2組担任   江上 芳浩

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