美馬のゆり 埼玉大学
英語嫌いだった私
中学、高校、大学と私はずっと英語の授業が嫌いだった。その私が新100校プロジェクトの国際化ワーキング・グループに配属され、2年間ここで活動することによって、また今回この随筆を書く機会を得て、その理由がわかったような気がする。それは今までに受けてきた私の英語教育が問題であったのだ。その後運良く楽しく英語を話せるようになった私の経験をもとに、私のように英語の嫌いな子どもたちをこれ以上増やさないように、私の経験を話してみようと思う。
私の通った中学高校の6年間一貫教育の女子校は、特に英語教育に力を入れていた。1年生の頃から外国人教師による英会話の時間もあり、週休2日の学校の割には、英語の授業時間が文部省の規程より多く設けられていた。英文講読、文法、副読本、会話の構成だったと記憶している。しかし私にとってはどれも興味が持てなかった。何のために今この勉強をしなければならないのかがわからなかったのである。英語は単なるコミュニケーションの道具であること、コミュニケーションの相手が向こう側にいることなど、その当時の私は気づくこともなかった。
留学しなければならなかった私
大学ではコンピュータ・サイエンスを学んでいた私は、3年生になったときにアルバイトで教育用プログラミング言語の移植をおこなった。そしてその時から、コンピュータを教育に利用することについて、もっと考えたい、知りたいと思うようになった。ところが日本の大学ではまだその様な分野は確立されておらず、アルバイトで知り合ったMITの学生に、米国の大学院ではその様なことを勉強できることを教えてもらった。私はそれから必死に英語の勉強を始めた。大学院に留学するには、外国人としての英語の力を測るTOEFLと、大学院入学レベルの学力を測るGREが必要だった。これらのテキストを買い込んで勉強し、また企業に就職してからも米国人と一緒に仕事をする機会に恵まれた。
米国に留学してから問題になったのは、日常の言い回しや、レポート執筆であった。本を読むことについては、速度に問題はあったが他に比べるとそう苦痛でもなかった。日常の言い回しについては、まわりの人たちの使っているのを観察したり、親しい友人ができるとその友人のまねをしたり、教えてもらいながら覚えていった。書くことについては、初めは日本語で書いたものを訳すことをしていたが、それでは話が通じないことを経験しながら、初めから英語で考え、構造的に書くということに気づいていった。そして書ける分量も日増しに増えていった。
腹痛に悩んで気づいた私
ある日こんな出来事があった。大学で昼休みにひどい腹痛に襲われた。ちょっと苦しそうにしていると友人が、「大丈夫?」と聞いてきた。大丈夫ではなかったが少し我慢して「大丈夫」と答えた。もう一度聞いてきたら、痛いといおうと考えていた。
しかし、友人たちはおしゃべりを続け、痛みはおさまらない。そこで気づいた。ここは米国で、自分から率直に気持ちを声に出して伝えなければ、誰も気遣ってはくれないと。そこで「かなりおなかが痛い。」といったとたん、薬は何だの、病院はどこだの、と大変心配してくれた。遠慮せずに、自分のしたいことや考えを率直に伝えなければ何も伝わらないものだとということがわかった。この様な出来事を通して、文化の違いを肌で感じとっていった。
肝心の授業はというと、初めのうちは先生が何を言っているのかがわからない、学生も活発に質問する、やりとりの多い授業に圧倒された。それが1カ月位すると、前もって予習していくこともあって、先生の話がわかってくる。しかし相変わらず、学生の質問とのやりとりがわからない。それもさらに1カ月たつとわかってきた。質問の内容のレベルが低い。そんなこと大学院に来るのなら常識程度の内容だ。また先生が一度説明したことを質問する学生もいる。そこで先生は丁寧に「先ほど説明しましたが、重要な点なのでもう一度繰り返すと...。」といって嫌な顔ひとつせず答える。これなら私にも質問できると感じ思い切ってしてみる。しかし質問することで気が一杯になり、肝心の答えが聞き取れない。こんなことが続いて、3カ月たった頃、これならやっていけると自信がついてきた。こんな経験を通して、あっという間に卒業、帰国の日になってしまった。
再び渡米した最近の私
帰国後は、米国の友人との手紙のやりとりなどで英語に触れる機会はかなり減りはしたものの細々と続いた。しかしそこには、渡米前の英語に対する苦痛はなかった。米国に9カ月滞在したのだからさぞかしTOEFLの点が上がっているかと思い受けた
結果はほとんど同じ。TOEFLにはある種の出題傾向があり、それにのっとってやれば、それなりに点数がとれるのだということがわかった。
その後日本ではさらに自分の研究テーマを深めるために大学院へ入りなおした。そこでの7年間では、研究テーマを持ち、実験、観察、分析、考察などを行い、論文を執筆した。昨年は約1カ月米国の研究所に研究員として滞在する機会に恵まれた。その時の生活は、12年前の米国での大学院生活と、英語に関することで大きな違いを発見することになった。英語に触れる、あるいは日常使うという意味では、大学院時代の方がはるかに多い。しかしながら今回の滞在では、その12年間のブランクを吹き飛ばすもの、あるいはそれ以上の力を持っている自分を発見した。訪米初日から車を借りて研究所まで赴き、日用品の買い物もした。これらを可能にしたのは、米国における文化をすでに理解していたことが大きい。また研究所での会話力は、自分の研究テーマや研究成果を持っていたことに大きな意味がある。「自分の研究テーマや成果を人に伝え、それに関して議論をしたい」という訪米の第一の目的を達成するために、その機会を最大限活かそうとしたのである。関係のありそうな研究をしている研究員とそれぞれアポイントを取り、討論する。この英語での議論を可能にしたのは、目的をはっきりと持っていたことであったからであるといえる。大学院での生活は、講義を受けてそれを理解するという、ある意味では受け身の姿勢であった。これが今回は自分から積極的に人に伝え議論するという姿勢に変わった。
楽しいメンバーに支えられた私
英語は道具であるといわれる。しかしながらその道具であるはずの英語が、いつのまにか勉強の「対象」となってしまう。紙と鉛筆の使い方がわかっても、コンピュータの使い方がわかっても、それで何がしたいのかを持っていなければ宝の持ち腐れ、あるいは宝になる前に習得する動機を失い挫折してしまう。
この2年間、新100校プロジェクトの国際化ワーキング・グループに所属し、そこで生き生きと活動するグループのメンバーを見てあらためて気づかされた。彼らは伝えたいものを持っており、自分たちのやっていることが新しい学習の形であり子どもたちのためになるのだと確信している。そして、それらの交流を楽しんで、ある意味では自分たちのためにやっているのだ。こういったメンバーたちに支えられ、国際化ワーキング・グループは成り立っている。私も実際にやっていて本当に楽しかった。この様な活動的で楽しいメンバーの一員として私に参加する機会を与えてくださったことに心から感謝する。
私が多くのことを学んだこの様な場を、子どもたちにも是非提供していきたいと考えている。英語を使うことのおもしろさ、いやそれだけではなく、様々なことを学ぶことのおもしろさを発見する場として...。