5.走る続ける                  影戸 誠  名古屋市立西陵商業高等学校

 マラソンランナーが走り続ける、ただひたすら走る、そんなときふと「景色が見てみたい」と思う瞬間があるという。景色、周りの風景、今は春なのか、夏なのか、どこにその季節があるのか、景色を見てみたいという。
 僕もそんな欲望に駆られることがある。朝起きて、電源を入れる。メールをチェックする。そして学校へ、授業、インターネットを活用した授業の場合、事前に数十倍もの準備を相手側と行う。授業の合間にメールのチェック、サーバーのメンテ。
 夜原稿書き、書類の整理、2時、3時となる。またメールだけが新しい一日が始まる。
 ネットワークは僕の生活の中では血管と化し、動き続ける。
 「景色が見てみたい」そんなことを思わないわけではない、しかし景色を見るとき同時にスピードも落ちてしまう。
 いまこの転換期にあってスピードを落とすわけには行かない。
  横を走っているランナーの集団を見ると国際化ワーキングのみなさんがいる。この人たちも私の前を走り続けている。
 毎日走ってきたが世界も駆け抜けてきた。
 ネパール、タイ、ドイツ、デンマーク、アメリカほとんどの国をパソコンとモデムを片手に走り抜けてきた。
日本の生徒には異文化が必要
 私は教師である。そう、生徒の前に立つ教師である。だから生徒に元気になってほしい、学ぶってことを体験してほしいそんな願いを持っている。 

  日本の生徒には力があり、可能性無限である。そう信じている。しかし、現実はそのエネルギーを持て余し、お化粧や、ルーズソックスの長さの調節へと向かっている。
 内に向く非創造的なエネルギーを何とかしたい。そんな願いを持ち続けている。
 自分を見る為には鏡が必要だ、インターネット・異文化という鏡が必要だ。

すべての生徒に海外を
 異文化を教室へとこれまで海外研修旅行を試みてきた。7年目を迎えようとしている。
 生徒は現地でのホームステイを体験し、感激し帰国する。「お世話になって本当にお世話になってありがとう、この気持ちを伝えたい」 しかし[thank you ]を連発するしかその方法はない。もっと気持ちを正確に伝える英語を知りたい。
 学習が始まる。そこまではいい。
 しかしクリスマスカードを送る頃になるとその熱もさめ、友達とカラオケ計画にうつつを抜かす。

日常的な接触
 海外研修に行かない生徒にも自分を見せる異文化を体験させたい。日常的な交流を実現し、「すべての生徒に端末の向こうにある海外」を体験させたかった。
 そのような願いをもってインターネットの道を走り始めた。事実インターネットの機能はすばらしく、わたしたちを虜にさせた。
 あのときがスタートの白い線だった。

世界を走って

私の見たアジアのインターネット状況

  アジアは、どんどん風通しが良くなる。自分勝手な憶測や偏狭な愛国心は、インターネットによって、木っ端みじんになるだろう。その準備のため、今夏一気に、フィリピンとタイ、ネパールを駆け抜けてきた。どの国も明確に三つのキーワードが国の方向を指し示す,コンピュータ、インターネット、そして英語である。  

  アルフォンサス高校を訪れた。この高校は、フィリピン・セブ市、マクタン島にある私立学校だ。この島にも今春、プロバイダー(インターネット接続業者)が進出した。放課後というのに、コンピュータ室では20台の端末の前で学生たちが必死にキーボードを打っていた。
 私「インターネットを知ってるかい?」
 「オフコース(もちろん)」
 私「回線がつながったら、メールを打ってくれる?」学生「毎日でも喜んで
」と明るく笑った。
  シスターでもある校長は「日本企業から少しの援助を受けていますが、とてもインターネットまでは手が出ません。日本との交流について、できることは、必ず実行させていただきます。」と約束してくれた。今後、僕らがこの学校にできることを説明し、生徒たちの笑顔に見送られて同校を後にした。 

 ネパール唯一の国立大学、トリブバン大学付属高等部(カトマンズ)を訪れた。「やる気のある質の高い生徒が集まってきます。コンピュータを導入したカリキュラムを考えているのですが…。」校長は表情を曇らせる。学費月額千五百円。政府からの援助も期待できない。日本側からの援助によるインターネット接続の話を持ち出すと、顔色が変わった。「この学校には電話があります。インターネットは可能」と僕をのぞき込む。大学教授の給料でさえ二万円を割る。コンピュータ代はベンツ並みで、年収以上の代物だ。ある程度選抜された高校生の集まるこの学校でさえ、この状況である。

 カトマンズから北東三十キロの学校にも出かけてみた。ドリケル高校、全校生徒五十人。あとに中学の授業があるため朝六時から授業開始。「就職したいし、そのためにはコンピュータの学習が…、でも絶対無理です…」と女子生徒。午後からはお父さんの仕事を手伝って畑仕事という。牛の糞(ふん)とヤギの糞、時には人の糞が雨と共に流れてくるあぜ道を、サリーを野良着に着替え歩いていくのだろうか。

 アジアの高校を結びたいと考えている。アジア高校生インターネットプロジェクトだ。高校生が毎日のように生活、夢、国について語り合える環境が整えば、どの国の高校生もお互いを支え合えるはず。日本の生徒がアジアの他地域の高校生の声を聞けば必ず何かが動くはずだ。それは「かわいそうだ」「遅れている」ではなく、生きること、学ぶこと、そんな問いかけが起きはしないだろうか。
 われわれは教師集団である。眠り込もうとする生徒にゆさぶりをかけ自分自身に出会ってほしいと願っている。アジアにどんどん日本企業は進出し、「国際化」は一般の認識を越えて、はるかに前を走っている。しかし、教育の分野ではとても交流が進んでいるとはいえない。アジアは第二次世界大戦の傷跡を残す。電子メールで交流を行っている中国の学校からは「日本人は大嫌いだというメールがやってくる。交流のため日本へ来ようとした韓国の高校生は、親せきの人から「日本に行くと差別されるよ
」と忠告を受けたという。それぞれの国の利益を第一とした歴史観が、このような結果をもたらすのだろうか。しかしインターネットは今生きている高校生たちを瞬時に結ぶ。自分たちのアジアを思い描くことだろう。夢を分け合いながら交流を続けていくとき、受験と教養のためだけだった英語も心と心を結ぶ言語へと変わるだろう。

ネパールインターネット接続

「わーっ、ネパールのタクシーの初乗りは20円だ!」と経済格差に驚いたり、テレビも電話もない中、夕日をバックに恥ずかしそうに言葉少なに語る恋人たちの、そのけなげさに感激してネパールとの交流を考えたわけではない。
 我々はテレビ番組の放送作家でもなければ、一時期の感激を求めて「ネパール」を旅する旅行者でもない。
 経済的な発展の中で我々がなにを失ってきたのか、「貧しさ」の中にある輝きを我々は学ぶことができないのかそんな気持ちからネパールを選んだのだ。
 私はこの1年間にネパールを3回訪れた。自分の目でみて、肌で感じたネパールはいつも私を揺り動かしてくれた。
 サランコットの丘からみたマチャチュプレの勇姿は、神々が宿るそんな言葉を本気で実感できる山であった。太古の輝きをその残雪に輝かせ能率と効率に染まった体を揺さぶってくれた。また、電気もなにもないチトワンでは、暑さにうだりながらも、家族が寄り添いあい、会話の中に楽しさと、安らぎを手にしているのをみてきた。
 ネパールの街、カトマンズは急激に変わりつつある、半年前にはリクシャーという人力タクシーが幅を効かせていたのだが、今年の夏は悲しいほどの自動車の数になっている。
インドからの安い、規制の全くかかってない、排ガス吐き放題の車が我が物顔で走り回っている。
 カトマンズ市内から見えた山も、彼らの無神経なガスにその姿を隠している。

現地の高校へ

 カトマンズはさすがに首都だけあって、私立の学校が多く設立されており、英語はもちろんのこと、最近ではコンピュータ教育に力を入れている。どこかの学校とどうしてもインターネットを結びたかったので、プロバイダーの人などに高校を探してもらったのだが、ほとんどが、プロバイダー自身に思惑のある学校で、後で紹介したことをなにがしかに利用しようとする雰囲気が感じられた。この国では日本人の知人がいることや「口利き」が一つのステイタスになっているのだ。
 結局、ドクターラムの紹介で、ホーリーガーデンハイスクールを訪れることとなった。校長は不在であったが、連絡を受け直ちに飛んできた。不十分ながら5台のコンピュータを持っており、専属の教諭もいることからこの学校にきめた。
 この学校よりはるかにいい学校があることを我々は知っていた。しかし、いかに数十台のコンピュータが入っていたとしても、金持ちの自慢情報なんかほしくないのである。わずか5パーセントの人が95パーセントの経済を牛耳っている社会である。5パーセント側の生徒と交流し「うちの家には衛星テレビがある。さらにはPanasonicの大画面テレビがある」と自慢げに語ってもらったとしてもそれは真実のネパールを伝えない。そんなお坊っちゃんとの交流を企画しているわけではない。月収わずかに1万円前後の一般的な家庭のいくらかの金のために夢見ることを制限させられている「高校生」との交流を夢見たのである。
 このような観点から、この高校をとりあえず第一回のプロジェクト相手校としてインターネット接続を行ってきた。

教室の中へ

 かなり狭い部屋である。高校2年生の部屋に入ることができた。
 中には眠そうな顔をしている生徒もいたが、入ると同時に全員起立してくれた。日本の高校生も昔はこうだったのかもしれない。彼らの英語のレベルが知りたかったので校長の許可を得て、2、3質問してみた。
「日本のことどう思う?」
生徒が校長先生に助けを求める。ネパール語で解説。
「I like it」
どうも彼は英語が得意ではないらしい。次の子に校長の目が輝く、できる子らしい。
「こんにちわ、日本のことどのように知っていますか?」
彼女はニコッと笑った。
「そんなに大きな国ではありませんが、産業技術がとても発展しており、アジアで経済的にも、文化的にもリードをとっている国です。」満点である。
「インターネットを知っていますか?」
「知っています。やってみたいと思いますがその施設がありません。」
校長がその横から
「今日この先生たちが、そのためのコンピュータを持ってきてくれ、接続もしてくれるんだ」
生徒たちの顔が輝いた。
「ナマステ(ありがとう)」一斉に答えてくれた。
彼らの英語力とインターネットへの関心を知るにはこれで十分であった。
「日本のぼくの生徒と是非交流をしましょう」
 ただこの学校にはわずか5台のコンピュータしかない。それでファイルをつくり送信すると言うことになる。ネパールでインターネットに接続している学校という新しい特徴を備えることに喜びいっぱいの校長の表情を外にとにかく接続第一歩としてはまずまずと思った。
 校長とその後接続経費はこちらが持つという話し合いをして、外に出て道路の向こうへ渡ろうとする高校生たちに出会った。「どこへいくんだい?」ネクタイがいかにも面倒くさそうな男の子に聞いてみた。校長のいないところで彼らの英語をちょっと意地悪くチェックしてみたかったのだ。「バリーボール、オバーゼア」大丈夫だった。

 

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