9.学校教育と国際化 ―グローバルファミリ意識を育てる―

        高木 洋子      テレクラス・インターナショナル・ジャパン代表 

                      teleclas@mbd.sphere.ne.jp

                      http://www1.sphere.ne.jp/Teleclas

 民族・国家・宗教・イデオロギーの対立を、20世紀の100年間、人は戦争という手段を使い、国を守り人を守ると信じて戦った。戦った相手は例えば隣の国であり、そこを生活の場とする人であった。核兵器という地球惑星を容易に破壊できる武器を作り、その威力は日本の広島・長崎で既に証明済みである。同時に森林を砂漠化し生物体系を破壊することにも無知・無関心であった。目の前さえ美しければ、自分さえ食べられれば、よかったのである。
 しかし近年、通信科学の発達は、地球環境の現実や敗れた国の人の悲惨を、情報という形にして人に届けるようになった。衣食住を持てる人にである。夜昼なく洪水のように溢れる情報は、ある人には文字の羅列で意味がなく、ある人には単なる知識を得る源であり、ある人には何かしなくてはと思案させ、ある人には行動を起こさせる。 
 この情報の嵐は、満足して生活している人に、自分の外の、家族外の、地域外の、国外の、地球の外の現実を、見せて聞かせる。僅か50数年前に敗戦を経験した日本では、自分の夫や息子が何処で爆死し或いは餓死したかの情報さえ伝わらなかった。今、地球の反対側の地震が、数秒で全世界にニュースとして知らされる。つまり日本の片田舎に住んでいても、否応なく地球とか世界とかに向き合わされている。50数年前であれば知らなくて済んだ悲惨な事件や災害が日常の生活の中に侵入して、大人達には、なんとなく行く末が不安という不安症候群を生み、自信をなくし、予言を売り物にする人が20世紀末を商売にして不安症候群を増幅している。 
 このように情報は、テレビ・ラジオ・インターネット・新聞その他、あらゆるメディアを使って日常生活の中に世界を送り込み、生活者は「世界という世間」に無関心・無視を続けられなくなったのである。そこでこの情報として送られる、学校教科書に留まっておれない程に変転極まりない生の世界に対して、学校教育では国際化を計り積極的に対応しようとする時代となった。
 そこで国際化にあたって、今、教育現場に求められる次の3点を強調したい。

      1)国際間ヒューマンネットワーク 
      2)徹底した英語コミュニケーション力 
      3)明確な国際化の目的    である。

  1)国際間ヒューマンネットワーク
 国際化を担当する教師が、多くの海外の教師と出会い、それぞれの学校事情・通信事情・教育事情を話し込み、互いに教師仲間意識を共有することが、今後、国際間共同プロジェクトをスムーズに、且つ継続して進める上で必要なことである。互いが相手の立場とその生徒の事を考えるから無責任にはできない。生徒に国際化を云々する前に教師自らの国際化が必要である。
 しかし、最近は疲れた教師が少なくない 疲れた教師は、新たに人や情報システムと関係を築くことを躊躇する。チャレンジを避けて従来の慣れた教育スタイルに固執し生徒には教害を及ぼす。まず、たっぷりのサバティカルを取って心身共のリフレッシュをし、みずみずしさと柔軟さを取り戻し、海外の教育ネットワーク会議やワークショップに参加して国際間ヒューマンネットワークを学校に持ち帰り、国際共同プロジェクトを生徒と共に立ち上げる。教師が生き生きすると生徒が輝きはじめる。日本にそんな国家予算はないと言うだろうが、一億二千万余の人口があって人がいないとは言えないし、要は国税を教育にどうもっていくかである。 
 昨年夏、東京で2日間にわたって開催された「国際シンポジウム
98:世界の学校教育におけるインターネット活用」で、一番の対象であった小・中・高等学校教師は、申込み数791件中、193件であった。4分の1である。世界的なネットワークの代表者と現場の教師とのヒューマンネットワークを描いて、交渉し招聘へ運んだ当シンポジウム準備委員の一人としては、この企画の必要性が学校現場に理解されないもどかしさがある。
 この国際シンポジウム招聘の一つにI*EARNがある。
 I*EARN( International Education and Resource Network)は毎年、世界のどこかで1週間にわたるI*EARN国際会議を開催する。第1回アルゼンチン1994年・第2回メルボルン1995年・第3回ブダペスト1996年・第4回カタロニア1997年・第5回チャタヌーガ1998年であり、今年は第6回プエルトリコである。 第3回から参加しているが、昨年は45カ国から400名弱の教師が寝食を共に1週間を過した。 年間プロジェクトの報告や新プロジェクトの練り直し、テクノロジーの習得、グローバルネットワークとしての方向付け、世界各国の教育情報交換の1週間であるが、さしずめ地球サイズの学校職員室といった風情である。勿論、食事時や夕刻はソシアルタイムで教師間の友好密度が濃くなる。ここで育った信頼関係は、その後の共同プロジェクト運営を成功させる大事な要因となる。 
 このようなヒューマンネットワークは、日頃よく聞かれる国際間共同学習やメール交換の問題点の多くを解消し、教師同志のコラボレーションを自然体で進める。日本からの国際会議参加・I*EARNプロジェクト参加が期待されている現在、昨年の国際シンポジウムをきっかけに発足したI*EARN
Japanの活動が楽しみである。
 また、1998年度最後の国際化ワーキンググループ会議で、美馬先生から発案があった国際プロジェクトコーディネータは賛成である。私案であるが、学校のカリキュラムや通信環境を熟知した教師を地域で一人選び、コーディネータとして育てる 世界的なネットワーク会議に参加し、情報を集め、それを地域の学校に参加し易い形で紹介・提案し、参加を促す。また問題解決や指導にも携わる。コーディネータの国内ネットワークを作って研修を重ねるなど、この橋を務めるコーディネータの存在は今後の国際化に必要である。

  2)徹底した英語コミュニケーション力
 テレクラス・インターナショナル・ジャパン事業では、テレビ電話やISDN回線を使った国際間テレビ会議を実施するが、やはり一番の問題は、生徒の英語によるコミュニケーション力・プレゼンテーション力である。どうかすると、自己紹介まで用意したメモを読むという具合である。最近のある高校とシンガポールの高校とのテレビ会議では、帰国子女が殆どの討論を展開し、一般の生徒は討論に入って行けなかった。その日のトピックが、教科書でとりあげられクラスでデベートをしたにも拘わらずである。勿論、この度は初めての経験であったため、次回は様子が変るであろう。
 しかし、英語を何年も習ってきて、なぜ聞けず、なぜ話せないのか。同じように英語が第2国語である国との交流や共同学習であっても、大抵は相手校の達者な英語に圧倒されている その理由は明白で、つまりそのような語学学習をしていないからである。教科書の難解極まる英文をノート左頁に写し、右の頁にはその日本語訳を書き込む。将来、翻訳家を目指すのであれば、そうすれば良い。しかし今、日本人にとって必要な語学力は、相手の話している内容を正確に把握する一方で、自分の考えをまとめ、会話であれプレゼンテーションであれ、相手に伝えられることである。ネイティブのように流暢に話す必要はないが、表現力豊かに、ユーモアをもって、誠実に話す訓練がいる。会話を自然に続ける訓練がいる。曖昧な笑いを浮かべていても気味悪るがられるだけであろう。国際化を進めるとあれば、まず英語の学習時間を徹底した会話力と表現力用に切り替えることだ。難解な英文読解は、大学において英語を専門としようとする学生が取り組めばいい。 

  3)国際化の明確な目的
 国際化はなぜ必要で、その目的はなにか、ゴールはなにか「異文化を理解する。自分を知り自国の文化を認識する。」と多くの人は言う。インターネットで異文化情報をふんだんに取り込み、電子メールで海外の生徒とやりとりする。テレビ会議で異文化の中で生活する人と討論する。或いは訪問し合って握手する。これらの目的が単に互いを理解するためだけであれば、充分な国際化とは言えない。理解しあって、それで、どうするのか先のゴールが見え、そのゴールに向かって双方の行動が伴わなければ、所詮、知識を満足させるだけの、うすっぺらな国際化である。 
  前記の英語がどんなニーズのための学習なのか、教師も生徒も分っていなければ、恐ろしく無駄な時間をかけて、わざわざ英語嫌いを作って卒業させるように、この国際化も異文化の物知りばかりを作ることになりかねない。 
 国際化がなぜ必要か。青臭い言い方であるが、やはり
For The Better World  For Everyone である。交流によって「みんなグローバルファミリー」を実感できれば、衣食住がなく学校に行けない子供に、虐待を受ける子供に、淋しく亡くなる老人に、家族としての思いやりを示し、家族としての責任の一片を担うのではないか。そうする意義を納得すれば、生徒によって問題解決へ次の一歩が模索される。プロジェクトを組んで学習している海外のパートナーと共に決めて果たす責任は、もっとやり甲斐があるかもしれない。互いに実行し行動の成果を発表しあうのもいい。
 そうして幼年時から培われたグローバルファミリー意識は、20世紀の戦争と環境破壊で21世紀へ持ち越される多くの宿題を違った切り口で癒していく。壊された人の心も地球の自然も。 

 

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